セックス、してますか?

迷惑メールめいたタイトルです。


いわゆるセックス、
ここでは部分的なものは含めず、
全体完結の行為を指しますが、
その意味でのセックスを私は、
1年半ほどいたしておりません。
彼女がいない期間と等しい。


別にもともとそんなに性欲は強くないです。
いたしたいがために彼女を作ろうとは思いません。
セクリたいなら、買うほうが断然効率的です。
僕はセクルために金を使うなら、
AVをたくさん借りる派なので、
かいたことはあっても、買ったことはありません。


ある女性と付き合うというのは、
全人格的な行為で、
精神的、金銭的、肉体的に、取り組むことです。
冷静に考えれば、おっくうです。
それでも・・・、と思わせるがゆえ、
つきあうわけです。
ただ、セックスしたいだけだったら、
とてもじゃないけど、我慢できません。
ただそうしたいわゆる恋愛とセックスは、
無論、無関係ではなく、重なる部分はあるけどね。


とくに何が言いたいわけでもありません。
先日、膝枕をしてもらって以降、
ちょっと、彼女欲しいなーなんて思っているため、
その周辺について考えをめぐらせがちなだけです。

グレー続きでは、ある。

同年代の皆が、
やれ就活だ、就職だと懸命に生きているときに、
俺はまだ大学生をやっていた。
4年制大学を6年かけて卒業した。
最後の2年間、一体何をしていたか。
恐ろしく気楽に、遊んで暮らしていた。
将来について考えないでもなかったし、
眠れぬ夜もないではなかった。
でもそれは一過性のもので、
最終的には、
「ま、いっか。なんとかなんべ」
で終わり、
ただただ、遊んでいた。


今日たまたまPCに残っていた自主制作の映画を観た。
それはまさにその自由の時代を象徴する内容だった。
くだらないことこの上ない。
公園で後輩の髪をめちゃめちゃにカットしてる様子や、
説明すらしたくないくだらない映画数本をとってたりしてる。
このころに比べたら、
なんて今の俺は規則正しく、
つまらない生活を送っているんだろう。
「うわーつまんない」
と最近ちょくちょく思って、
ひどいときには、
「一体人生の何が楽しいんだ?」
とまで真剣に考える瞬間があるのは、
単純に遊びが、
それも最高にくだらないクリエィティブな遊びをしてないからか・・。
でもそれに付き合ってくれる人も、
最近じゃおりませんしね。。


春から大学院に進学。
卒業して働きだす、予定。
やっとね。
そりゃこれまでも働いてはきたけど、
なんというか、
生業なわけで。
仕事というのは、
農作業で言うところの、
開墾、
横文字で言うところの
フロンティアスピリッツを伴うものだと思うわけ。
自分の意識においてね。
「あー、これは新しい、面白い」
とちょくちょく思える、
というか、
本気で仕事をしたら、
いやがおうにもそう思うんじゃないかと予想する。
そして、
もはや腰掛、といういいわけが自分に対してできない以上、
ぶっこんでやるしかないわけじゃーん。


もはや自由の時代は終わり。
少なくとも過去とは自由の意味合いが異なる。
自由を発揮する舞台が変わる。
そう思いながらも、
過去の愚考に愛着を感じるのであった。

考え遊び

なぜ、飽きることなく、
ラブストーリーは語られるのでしょうか。


手を変え、品を変え、
遅くとも人類が歴史を持ち始めて以降、
つまりは文字による記録を残す技術を獲得して以降、
恋愛というテーマは尽きること無く、
語られてきたことが知られています。


それでは、
人類は恋愛において、
進歩してきたのでしょうか。


恋愛博士である私は断言してもかまわないのですが、
なんら進化してはおりません。


愚かしくも悲しい、
それでいて愛しい人間の絶望的なこの所業は、
常に、他人とのつながりを求めては、
はかない結末をたどっているのです。


*********


恋愛というものは、
俯瞰してみる分には、
あるいは、
適度に感情移入する分には、
楽しいものであることは否定できません。


しかし、
恋愛という概念の衣の底にあるものについて、
想いをはせるとなんとも悲しい結論に至ります。


中世のヨーロッパである心理的実験が行われました。
生まれたばかりの赤子はいかにして言語を獲得するのか、
その過程を知るために、
ある有力者は、
赤子に対して、肉体的な生存に必要な世話だけを施し、
精神的なもの、つまりは微笑みかけるだとか、
あやすだとか、語りかけるだとかいった行為を一切しない、
そういう試みをなしたそうです。
その結果はどうなったか。
言葉や感情の無い人間が育ったのか。
事実はそれよりも恐ろしく、
その試みの対象となった赤ん坊は、
みな命絶えてしまったといいます。


人とつながりたい、
それは決して人間の表面的なセンチメンタルではなく、
また、生存のための技術でもなく、
人間が生きるうえで本質的に欲し、必要とするものと、
考えることができるでしょう。


そのような人間の本質の上に、
花開いた文化の一形式が恋愛だと考えるならば、
恋愛にもある種の究極の形があるのではないか、
また、そうであるならばその奥義に達し、
私とともに生きてくれる人を探し出したい・・・、
そう思うのも自然なことです。


しかしながら、
世にあふれる「恋愛」には、
詐欺や欺瞞、倒錯したものが多く、
そもそもの本質とはかけ離れ、
手段と目的の入れ違いが生じていると思えてなりません。


また、
恋愛に正解があるのかといいますと、
それは定性的には語れても、
定型的には語れぬ性質である気がいたします。


つまるところ、
方程式としてその性質を表すことができたとしても、
その方程式を解ける人間はこの世に存在しないのではないか。
そうでもなければ、
こうも長い間、飽きずに恋愛が語られてきたことが解せません。
古典的な文学作品でも恋愛は語られ、
現代に生きる私もそれを理解できるということは、
恋愛の本質は古来より変化していないのでしょう。
しかしながら、
小説の主人公が抱える苦悶を理解はできても、
解決の方法はわからないのです、
ブラックボックスの存在はわかっても、
依然、その中身についてはわからないのです。


その原因は、
人間はどうしようもなく孤独な存在であることにあります。
肉体的、精神的にも、
他人とつながることはできない。
ただ、自己と他人の間に横たわる暗黒の谷に、
頼りない橋を渡すことができるだけ。


その橋を渡る決意をし、
実際にその橋をわたっているその中途、
目線の先にいる愛する人が、
橋を支えるロープめがけて、
斧を振り下ろそうとしていたら・・。


そのイメージは、
誰しも抱えているのではないでしょうか。




以上は考えることを遊んでいるだけなので、
心配しないでね。

なんとなく、ね。

「だってそうなんだから」
そういう理由で意見を持ったり、
行動を決めたりすることは、ある。
でもそれって他人にはわかってもらえない。
理由無く行動することはありえる、
ということはわかってもらえても、
なんで俺がたいした理由なくそうしたかを
わかってもらえることは無理なことだろうと思う。
「なんで?」
と聞かれるたびに、
めんどくせぇな、理由なんてねぇよ、
と思ってきたが、
最近はそうでもない。
無理やりでも他人と共有できる理由を言うようにしている。
「それはね、こうこうこうだからだよ」
それがウソであろうが、
他人は俺がそういう理由で行動した、
ということをもって満足するのだ。
なにごとにも理由を持たせて満足したいという欲求に
皆、駆られているのだ。
また、
「なに考えてんだかわかんない」
そういう人間は不安の源とみなされるのだろう。
社会生活を人並みに送る以上は、
合理的、論理的な理屈を述べる、
という社交辞令を果たしていかねばならない。

悩み

ずっと下痢。
まともなコウンが久しく出ず、
もはやその勇士を思い出せない。


運子もらしちゃうのも下痢だからじゃないかな?
固形物と液体を比べたら、
そりゃ液体のほうが漏れを防ぐのは難しいもの。


なんなんでしょう。
ビフィズス菌みたいのが足りてないのかな。
食生活を振り返れば、野菜不足、繊維不足。
炭水化物と肉ばっか。
それもありましょう。


コウンは健康のバロメーターなどというのを
昔聞いた覚えがあるし、気分がいいものではない。