考え遊び

なぜ、飽きることなく、
ラブストーリーは語られるのでしょうか。


手を変え、品を変え、
遅くとも人類が歴史を持ち始めて以降、
つまりは文字による記録を残す技術を獲得して以降、
恋愛というテーマは尽きること無く、
語られてきたことが知られています。


それでは、
人類は恋愛において、
進歩してきたのでしょうか。


恋愛博士である私は断言してもかまわないのですが、
なんら進化してはおりません。


愚かしくも悲しい、
それでいて愛しい人間の絶望的なこの所業は、
常に、他人とのつながりを求めては、
はかない結末をたどっているのです。


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恋愛というものは、
俯瞰してみる分には、
あるいは、
適度に感情移入する分には、
楽しいものであることは否定できません。


しかし、
恋愛という概念の衣の底にあるものについて、
想いをはせるとなんとも悲しい結論に至ります。


中世のヨーロッパである心理的実験が行われました。
生まれたばかりの赤子はいかにして言語を獲得するのか、
その過程を知るために、
ある有力者は、
赤子に対して、肉体的な生存に必要な世話だけを施し、
精神的なもの、つまりは微笑みかけるだとか、
あやすだとか、語りかけるだとかいった行為を一切しない、
そういう試みをなしたそうです。
その結果はどうなったか。
言葉や感情の無い人間が育ったのか。
事実はそれよりも恐ろしく、
その試みの対象となった赤ん坊は、
みな命絶えてしまったといいます。


人とつながりたい、
それは決して人間の表面的なセンチメンタルではなく、
また、生存のための技術でもなく、
人間が生きるうえで本質的に欲し、必要とするものと、
考えることができるでしょう。


そのような人間の本質の上に、
花開いた文化の一形式が恋愛だと考えるならば、
恋愛にもある種の究極の形があるのではないか、
また、そうであるならばその奥義に達し、
私とともに生きてくれる人を探し出したい・・・、
そう思うのも自然なことです。


しかしながら、
世にあふれる「恋愛」には、
詐欺や欺瞞、倒錯したものが多く、
そもそもの本質とはかけ離れ、
手段と目的の入れ違いが生じていると思えてなりません。


また、
恋愛に正解があるのかといいますと、
それは定性的には語れても、
定型的には語れぬ性質である気がいたします。


つまるところ、
方程式としてその性質を表すことができたとしても、
その方程式を解ける人間はこの世に存在しないのではないか。
そうでもなければ、
こうも長い間、飽きずに恋愛が語られてきたことが解せません。
古典的な文学作品でも恋愛は語られ、
現代に生きる私もそれを理解できるということは、
恋愛の本質は古来より変化していないのでしょう。
しかしながら、
小説の主人公が抱える苦悶を理解はできても、
解決の方法はわからないのです、
ブラックボックスの存在はわかっても、
依然、その中身についてはわからないのです。


その原因は、
人間はどうしようもなく孤独な存在であることにあります。
肉体的、精神的にも、
他人とつながることはできない。
ただ、自己と他人の間に横たわる暗黒の谷に、
頼りない橋を渡すことができるだけ。


その橋を渡る決意をし、
実際にその橋をわたっているその中途、
目線の先にいる愛する人が、
橋を支えるロープめがけて、
斧を振り下ろそうとしていたら・・。


そのイメージは、
誰しも抱えているのではないでしょうか。




以上は考えることを遊んでいるだけなので、
心配しないでね。