幸福論
論理的に破綻している文章。
「前置き」
少数の人間による多数の人間の統治という仕組み(民主制度)以外に、
適切な統治システムはあるのか。
ある・・・システム移行によるあらゆる価値観の組み換えの可能性。
ない・・・民主制度の続行。
ここでは、民主制度が続行すると仮定して考える。
「民主制度下の人間世界」
機会の平等、結果の不平等が、ルールとしてある。
結果、経済的、政治的に力を得るものと、没落するものとに別けられる。
大きな力を得たものが「エリート・支配階級」
その元に「小市民。被支配階級」
がうごめいてこの世の政治経済は回る。
「政治経済的に強い立場に立つための必要条件」
・外的要因・・・家庭環境、所属する地域、国
・自己的要因・・・意思の現実化の成功(進学、人脈、就職)
→必要条件を満たすだけでは、不十分。
「政治経済的に強くなる。その力の根源はなにか。」
・社会的評価=ひとのうわさ
他人に対する評価の基準
(努力型)
・年齢、学歴、現在の所属、収入etc...
→文字化、数字化できるもの
(天性型)
・見た目、家庭環境、雰囲気etc...
→こうした基準には批判が多いものの現実的な基準として受け入れられている。
→あえて上記のような基準に反抗することも一種の基準となりうる。
より多くの人間に支持されること、
すなわち人のうわさを支配することが、
民主制度化ではなにより重要である。
そのための手段として、上記のような基準の上で、
嫌味なく成り上がることが必要とされる。
「民主制度のゆがみ」
純粋に民主制度が働くとすれば、常に数字と文字に追われ、
人のうわさに気をとられるという状況になる。
それはおっくうだし、不安だ、ということで、
排他的グループを各所に結成し、連携することで、
既得権益の保護にいそしむことになる。
そして、絶対の支配者なき民主制度は、
ゆがみを是正する者を欠いたまま、
動き続けることになる。
※インデペンデント系の報道機関すらない日本においてはなおさら。
「民主制度下における政治経済的な活動はゲーム」
・麻雀である。
ある程度確率に支配され、
ある程度予測不可能な人間心理に左右される。
「人生と政治経済」
多くの人間が政治経済的に成功を収めることが人生だ、
と考える。
同時に政治経済的に失敗しても人生的にはOKだ、という主張もある。
人生と政治経済の関係を考える。
?「そもそも人生とは」
この世に生れ落ち、成長し、年老いて、死ぬ。
その間、程度の差はあれ、政治経済的ゲームに参加する。
そして、色々なものを感じ、考え、ときに人と共有する。
それだけのものではないか。
それをわざわざ時系列に各種目標を設定し、
成功だの失敗だのと一喜一憂する。
それは自作自演ではないのか。
多くの人は、
「人生でなにかをなすべきだ」
と考える。
あたかも、
「せっかく生きているんだから」
とでもいわんばかりに。
しかし、
人は「よーし、ここで一発生まれてやろう!」
と、満を持して生まれ出てきたわけではない。
なんとなく、いつのまにか生まれたにすぎない。
これこれをなさないと存在価値がなくなる、
などといったものは無い。
価値とは他者の存在を前提とする。
存在価値とは他者からの自分に対する期待である。
往々にして期待とは、勝手なものである。
すべての期待に背く必要も無いが、(期待に答えることで満足を得るから)
すべての期待に答える義務も無い。
最終的な判断権は「自分の勝手」に宿る。
(この「自分の勝手」すらもある価値感を前提とする以上、
他者を意識したものになる。)
と、思考でいろいろと無駄をそぎ落としてなお、
残る何か。
それが自分を何かへと駆り立てるものなのだろう。
大概それはコンプレックス、トラウマではないか。
コンプレックス、トラウマの原因は他者であり、
その解消の手段も他者である。
(人間として絶対に逃れられないものは、
他者との比較、すなわち価値感。)
政治経済的な成功で解消されないコンプレックス、トラウマがあるがゆえに、
「政治経済=人生」と言い切れないのではないか。
民主制度下において政治経済的な成功が至高の成功であるがゆえに、
自己のコンプレックス、トラウマを政治経済的な成功によって解消することを試みる人間が多い。
しかし、所詮、次元が違う問題であるゆえ、解消できない。
そして「7人の侍」のように、
表向き支配階級である人間は、
被支配階級に利用されているに過ぎない、という見方も可能である。
人間の抱える根本的な問題を全ては解決できないという点からも、
政治経済=ゲームといえる。
麻雀に勝ったからといって、その人の人生すべての成功まで保障されないように、
政治経済的に成功したからといって、その人の人生すべての成功まで保障されないのである。
同時に、政治経済的に失敗しているからといって、その他の部分で成功しているともいえない。
民主制度下における我々にとって、政治経済的なある程度の成功が必要とされるのである。
「幸福論」
有史以来、数千年経たにもかかわらず、人間の幸福について、
誰も確固たる答を導いていない。
その原因は、人間の社会化であり、民主制度化であるという仮説。
幸福という概念はそもそもなんなのか?
「イヤだな」
と思うものを排除していったときに、
残るものなのか。
積極的にコレだ!と定義できるものなのか。
仮説「快楽追求=幸福説」
自己の快楽の追求は、いずれ社会の壁に突き当たる。
政治経済的に快楽の追求に成功しているものも、
快楽の追求により犯罪者となったものも、
本質的には等しい。
圧倒的に政治経済的に成功している人間は変態である。
ただ、その傘の下に生きる多くの人間にとって、
便利な存在であるから黙っている。
彼が没落あるいは没落の片鱗を見せた瞬間に、
変態として牢獄にぶち込まれる可能性は大きい。
ともかく、
本気で幸せになろうと思ったら、
己を見つめ、妥協なく突き進まなければならない、
結果どのようになるか。
成功者になるか、犯罪者になるか。
予測不可能である。
「私の結論」
人生、幸福についての私の結論は、
「できるだけ楽しく、いい感じに」
それ以外は、全て瑣末、過程に過ぎない。
私にとって政治経済的なある程度の成功は必要なものである。
しかし、それは目的というよりも手段としての側面が大きい。
決して、金なんて問題じゃないとは思わない。
金はあるに越したことは無い。
家族や結婚に金は必要である。
金は純粋である。
純粋な手段である。
ゆえに手段としての価値はある。
最終目的としての価値は、無い。
社会的ステータスも同様。
つまり政治経済的な事柄は、
手段であり結果にすぎず、目的にはならない。
金持ちやら絶大なる権力を手中にしたところで、
孤独で、毎日がつまらなく、ただ病的に忙しさに忙殺されるような生き方は、
まっぴらだ。
金持ちやら絶大なる権力を手中にしつつ、
楽しく、いい感じに生活できたら、それはそれでいい。
最優先事項は、やはり、
「できるだけ楽しく、いい感じに」
日々をいき、死ぬことなのである。