へい竜馬

昨日、喫茶店で2時間ばかり、
坂本竜馬について考えた。


そのきっかけは、
仕事帰りの喫茶店で、
最近太ってきたから夕食を抜くべきかどうかということについて思案していたおり、
ふと、
「なんの志もなく、日々を過ごすのは愚かである」
とかなんとか、竜馬がいったとかいわないとかいう言葉が頭をよぎったからです。


志ねぇ。
自分の志ってなんでしょう。
そう思う時点で志はないわけですが、
そもそも志はどのように個人の中に発生するのでしょうか。
かように思ったわけです。


例えば、竜馬が坂本竜馬としての志を持ったのはなぜでしょう。
特定の時代の、ある藩に生まれ、ある生い立ちを背負い、ある教育を受けたから、
うんぬんかんぬんと構造的に分析していくと、
1つの疑問に行き着きます。
「じゃあ、生れ落ちたばかりの赤ん坊(後の本来の坂本竜馬)を、
 こっそりと他の赤ん坊と入れ替えたらどうなったか?」
ということです。
それでもやはり、あの「坂本竜馬」になったでしょうか?
実験できないことなのでなんともいえないといえばそれまでです。
憶測でいうと、入れ替えられた坂本竜馬は、あの「坂本竜馬」にはならなかったんじゃないかなーと思うわけです。


たまに思うことですが、
人の本当の個性というものは、
体、ボディじゃないかと思うからです。


竜馬にしても、あの体だったことに加えて、他の環境因子が作用して、
坂本竜馬」になったのではないかという仮説。


そうでないとしたら人間は、生れ落ちた環境に流されるだけの人生を歩むことになる。
いや生れ落ちたこの体も環境のうちに含めば、
おのずと人間にはそれぞれ運命があるという論にもつながる。


志とは、そのために生きるなにかであり、
幕末明治の志士たちの志は、
わかりやすいものだ。
そういう一部の人以外の、
一般ピープルは志がないから愚かなのか。
それは違うのではないかと思い至る。
「志」は持つも勝手、持たぬも勝手、
個人の意思を離れた運命でありましょう。
ゆえに、
「自分には志がない」
などと嘆く必要はどこにもなく、
志がないことよりも愚かなのは、
手前勝手で本来自分のなんの縁もゆかりもないご立派な志によっかかって、
さも自分は充実しているかのごとく虚妄に生きるのみならず、
日々を懸命に生きる人を「志がない」などといって見下すことでありましょう。


志というものは後付の理屈、人を動かすための方便なのではないかと思います。
なんかいつのまにか自分はこうなっちゃった、とか、
俺がここでこうするより他しょうがないだろう、という自分の動きに正当性を与えるのが、
志、ということではないだろうか。



などと、一杯のコーヒーでねばりにねばり、
振り返ると根も葉もない、正しいともなんともいえないことを、
考えていたわけです。



翻って自分自身に志があるか。
無い。
いまだかつて持ったためしが無い。
今後持つ兆しも見えない。
では、私は今まで無計画にその場しのぎで生きてきたのか。
その通りだ。
では、適当か。
それはそうとはいえない。
その場その場はそれなりに一生懸命だが、
ある強烈な一つの意思、たとえば志といったものに、
支配されることがなかった。
そういう生き方をするタイプの人間ではない。
それだけのことだ。
今後もきっと、
こうだろう。
数年、数十年たって自分の過去を振り返ったときに、
点々と何の脈絡もなくやってきたようなことが、
線としてつながるかもしれない。
そうしたらそれは志などと呼べるものかもしれない。
それは結果である。
なんの脈絡も無いだらしの無い人生で終わるかもしれない。
それも結果だ。


自分の意思の範疇に収まるようなつまらない志を必要とするような
弱い心とはおさらばだ。
どうとでもなれ!



そうして私はいさぎよく喫茶店を後にして、
新しくできたラーメン屋へ向かったのであった。