悪徳の栄え

悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)

悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)


SMという概念を創出した偉人。
Sとはサドの略だが、
そのサドとは人名であり、
19世紀フランスのサド伯爵のことである。


そのサド伯爵が著したこの小説「悪徳の栄え」は、
1950年代後半か1960前半あたり(曖昧)に
内容のあまりの激しさに出版差し止め云々(曖昧)があり、
「検閲だ」やら「表現の自由だ」やら「公序良俗を乱す」やらの、
騒動を引き起こしたとか(曖昧)。
↓「サド裁判」ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%81%E6%BE%A4%E9%BE%8D%E5%BD%A6


この裁判は最高裁まで行った。
ある日、憲法の勉強をしていたらこの事件が出てきた。
もうひとつ、海外小説の翻訳でその猥褻さ(?)で憲法裁判になったものとして、
チャタレイ夫人も有名だ。


「これは読まねばなるまいて・・・。」
と静かな情熱が頭をもたげ、やむなく「悪徳の栄え」を古本屋で購入した。


その上下巻のうち上巻を正月元旦と2日で読み終えたのだが、
その破壊力たるや出色である。


我々はなんとなく、時代が進むにつれ全てが過去よりも進んでいる感覚で
日々を送っているが、よくよく考えがえればそれは間違いである。
有史以来人間が溜め込んでいる知識の継承は、
遺伝によって自動的になされるものではなく、
後天的な教育によってもたらされる。


つまりはオギャーと生まれた時点で、
平安も平成も無いわけである。
少なくとも形質的な特徴をのぞいては。
(推測)


逆に未来にオギャーと生まれる赤子も、
今生まれた赤子と変わらない。


赤子が生まれるたびに、人類は振り出しにもどっている。
死者の知識の多くは、伝えられることなく、消えてしまう。


人間の知的発展にとってこのへんのところが、
最大の障壁となるのだろう。。。


などなど。


なにが言いたいのかわからなくなってきたが、
とにかく、
時系列に従った人類の進歩など虚妄である。
人間はどこまでいっても人間である。
そんな超越的な感覚を感じさせる小説である。


おぞましいその内容について云々していたらきりが無い。
それは読むのをやめたくなるほどのものである。
しかし、それら表現はこの小説にとって手段にすぎない。
おそらく。


結果、この小説の背後に控えているものは、
さほどネガティブではないかもしれない。


なぜならば、読後不思議な開放感があったからだ。


今後、下巻、チャタレイ夫人、家畜人ヤプーも読むべきか迷っている。