「すべらない」(話)

「すべらない話」はもはや、その企画じたいがすべっている、などというと何様だ、と言われそうだが、ヒマなので言わせてもらう。

まず、すべらない。そもそも。あんだけケタケタ笑ってたらつられるし、たいして面白くもないなーと思っても、今のお笑いをひっぱる面子があれだけそろっているなかでウケてるということは俺の感性が硬くなっているのか?などと思ってしまう。
あるいはこのへんのフワフワ感が、笑いの本質を示しているのかもしれない。
純粋にすべらない「話」などは無くて、すべらない人、すべらない話し方、すべらない雰囲気があるに過ぎない。それらのトータルで「すべらない話」が成立するわけで。
とにかく、すべらない「話」として観ると、すべっているときはある。のに、「すべらない話」としては少なくともすべってはいない。このへんの矛盾が見ていてハンパな気がする。少なくともガチじゃない。
(どんだけヒマなんだか…)
そして昨日のスペシャル。
芸人が話して、豪華ゲストが笑う。
笑いは確かに「共有」なのかもしれないけど、そこで成立していた「共有」はなんだかうすら寒かった。
「ウンウン、わかるわかる」
に通じる感じというか。
なにがわかるってんだよ?とパンクにノイズを出したくなる感じ。


などと。
ただ単に自分の心が閉鎖的になっているだけかもしれない。
「真実は存在しない。ただ解釈があるのみである。人はそれを事実という」
ニーチェ改変。
己の思考もまた、人間がとりうる一つの選択肢にすぎない。