中途半端な、

新しい言葉を得ようとするときの困難は、
硬い土壌を耕すことに似ている。


これは年を取ったということか。


古文や英語を勉強していた時に思ったことを思い出す。


「いとおかし」
と、昔の人が思うとき、
その人の中でどのような感情がうずまいていたのだろう。


現代に生きる自分は、
「あぁ、これ、超いとおかし」
とは思わないわけで。


この昔と今の断絶を乗り越えさせようっていうんだから、
高等教育なるものの目指すところは果てしないわけで、
多少の挫折もやむなしとなる。
という言い訳。


英語もしかり。



しかし、その断絶は目的によっては乗り越えなければならないわけで、
一体どうしたら新しい言葉を身につけることができるのだろうかと考えるわけであります。


辞書的な意味をまず覚えて、あとは実際どのように使われているのかというコーパス的な知識を得て、文脈に応じて使い分けることができるようにならないといけない。


めんどうくさい。


また、不思議なもので、完璧に理解していると思っている言葉を他人に説明することが難しい。


言葉の理解には、言葉による理解つまり文字に起こせる理解以外の要素が入り込んでくる。


例えば、「海」を海を知らない人に説明となると、
困難は目に見える。


しょっぱい水が地平線のかなたまで満ち満ちている。
とか海の成分は血液の成分に近い、とか。
潮が満ちたり引いたりする、とか。
客観的な説明を試みようとするでしょう。


でも、この自分にとっての海というものの理解は、
昔家族で行った旅行で母が落ちた海だったり、
学生の時に初めて彼女といった海だったり、
主観的な要素が入り込んでいる。


自分にとっての「海」とは、
この主観的な「海」が多くを占める。


だから客観的な「海」の説明だけでは、
どうにも違和感が残る。


たとえ相手が、
「へーそうなんだ」
と納得しても、
「でも、それだけじゃないよ」
という部分が残る。


百聞は一見にしかず、ということで、
海を見せれば、
その人が「海」を理解したことを否定できない。
でも、その「海」と俺の「海」は永遠に重ならない。


このことは海に限ることではなく、
「ある人」について、
そして、
「自分」についての理解もまた、
永遠に重なることはない。


自分と他人の断絶。
自分と自分の断絶。


この世に「事実」は星の数ほどあれど、
「真実」と合致することはない。


なぜならば人間は真実を感じることができるのみで、
理解も表現もおぼつかない。


すべてはブルースリーが教えてくれた。


でも、いま言ったことは、所詮言葉レベルでの断絶だから、
もっと根本的なシンプルなレベルではつながりあえると、
信じている。
信じる、それもまた言葉だ。


と、安易な帰納法と知ったような言葉使いでで無責任に考えを広げるクセは問題だと、
最近反省している次第です。