下書きにおわるだろう下書き

最近、ここ数年のまとめとして、
以下のようなことを説得力ある文章に
まとめようかと思いながら、
めんどくさくてしていない。


以下、そんなものの大枠です。


魑魅魍魎が跋扈するこの世で、
魑魅魍魎である私が、
面白おかしく生きていくために、
知的でありたいと思っている。
しかしなかなか難しい。


本当に知的な人というのは、
何かを知っているとか知らないとかではなく、
常識的だとか非常識だとかではなく、
人脈が多いとか孤独とかではなく、
有名大学に行っているとか中卒とかではなく、
話題が高尚だとか、下世話だとか、
知的にみえるとか、バカっぽいとか、
そういう安易なことではない。


知的な人。
それは自分の頭で考える人である。
自分の頭で考えるには、
信ずるものがなければならない。


信じるに値する価値とは何か。
考えれば考えるほど、
あらゆる価値観はたまねぎで、
むいてもむいても皮だけで、
最終的には何もない。


あらゆる価値が幻であるなかで、
なにかしらの価値をもたなければ生きていけない。
死にはしないが、精神的に死んでしまう。
ゾンビになる。


それは誰にとってもおそろしいのではないだろうか。
絶対的な価値などどこを見ても見当たらない。
となれば、一般的に価値あるものと信じられているものを、
受け入れるしかない。
そもそも価値は、一人の人間のなかからは生まれない。
人との関係のなかで価値は生まれる。
たった一人の妄想も、
みんなで共有すれば理想となる。
そうだとすれば、多くの人に信じられている価値こそが至高であるという、
最大多数の最大幸福は妥当である。
しかし、
本当のところ、
みんな誰とも共有できない妄想を抱いているのではないか。
一般的に価値があるとされているものは、
所詮、妥協の産物なのではないか。。。


どこをみても、絶対的な価値はない。
安易に転がっているものではない。
苦労すれば手に入ものでもない。
石ころのように存在しているのかといえば、
存在していないんだろう。


そのような虚しい考えの最果てに、
何があるかというと何もない。


さて、そう考えると、
この世には知的な人など存在しなくなる。
よってたつべき価値観の地盤がゆるゆるであれば、
すべて価値観の体系は砂上の楼閣でしかない。
岩盤の上に鉄筋コンクリートのビルを建てたと確信を持ている人は、
誤解しているということになる。
この世はそんなとんちきな人だけで構成されていることになる。
実際、確信に満ちた人は胡散臭い。


問題は知性があるか無しかではなく、
程度問題ということになる。
どれだけ知性を誇りにする人も、
全知ではない。
そこで「無知の知
ということの意味を再考してみると、
それは謙虚さというよりも、
「知らないことは知らない。」
という潔い開き直りの処世術の言葉ではないかと思えてくる。
そして確かにその態度が知性ある態度であろうと思う。


以上は、今まで読んだり聞いたりしたことの、
コピペであります。
考えるとはコピペすることかもしれません。


また、そうした考えのその先の、
「唯一の真理は、真理はないということだ」
という矛盾を抱えたまま、
いかにして、おもしろおかしく生きていけるか。


それはまだ考えていない。
考える価値はある。
と思っている。
暇なときにでも。