ありきたりであり切実な結論。

たとえば、勝利とは、単純に言って他に勝り1番になることである。

勝負に勝って相撲で負けるというような考えもあるが、

どの道、勝つということは特定の価値基準の上でのトップに立つということに変りは無い。

勝つ、ということは言ってみればその程度のもので、味気ない。

しかし、勝つことがいかに難しいことかは、勝負したことのある人間は知っている。

勝利の喜びは、勝利自体が確かにもたらすきっかけとなるが、

勝利の喜びの源泉は、そこに至る過程である。

あるいは、勝利をつかめずとも、それまでの過程が妥協なきものであったら、

潔く負けを認めることもできよう。

悔しいのは、勝てなかった事実よりも、

負けた時点に至るまでにした妥協だ。


というようなことを思う。

至って普通な考えだと思うけど、

これを自分の言葉で言えるかどうかは大きな違いだ。

文章として覚えれば言える。

だがそれは空文だ。


日々、自分が考えることはありきたりなことであるが、

たまに人に言いふらしたくなる発見をしたような気になるときがある。

しかし、大概の場合、すでに誰かしらは同じことを言っているとも思う。

有史以来2000年以上、地球上の人間で俺と同じようなことを考えて生きていた人がいても不思議ではない。


では、俺の発見するありきたりな結論や格言は無意味かというとそうではない。

有効な範囲こそ、自分自身にとどまる狭いものではある。

公に発表するほどの価値は無いかもしれない。

しかし、それで十分だ。


ここでまた、ありきたりなことを言うと、

自由に生きるとは、何かをやらされるのではなく、自分で選択し、実行することだ。

他人のせいにすることなく、自分の裁量で。

あがるも落ちるも自分の選択。

超わがままに。

そのように生きるうえでは、考えるちからが無ければなにも選択できない。

結論はありきたりでもかまわないが、

そこに至る過程は自力で歩んだかどうか。

安い自己啓発本や、他人の言葉を鵜呑みにしたりしていないかどうか。


疑って疑ってやや鬱っぽくなってまでして考えて至った結論が、

非常にとっぴだったり、非現実的だったり、ありきたりで、他人に鼻で笑われようが、

固持できれば本物である。


そして俺はそうして得た結論を自分で容易にぶち壊すことも大得意である。

なかなか本物にはたどり着けないということであります。