ルーティン化への道

ルーティンというと、退屈、平凡といったネガティブな印象が先にたつが、
効率という点からすれば優れたものといえる。


思うに、ルーティンの大極は思索ではないだろうか。
そして、思索は非常に効率が悪い。

例えば、一日のあらゆる局面でいちいち総合的な判断をしていたら、
時間ばかりがすぎていく。
また、結局なんだかんだ思考をめぐらせたところで、
「最終的な回答」あるいは「真理」には到達できない。
最後は、「まだ不安は残るけど、えいやっ!」
という賭けに頼らざるを得ない。
考えればある程度、判断を誤らない可能性が増えるが、
判断が遅れることのリスクと天秤にかけた場合、
リスクのほうが大きいケースがままある。
むしろ、すばやい判断ならば誤っても回収できる余裕があるため、
結果的に得であることがある。
こと、致命的なミスをしない限りにおいては。


したがって、身辺に日々立ち起こるあらゆる事象に、
うんうん頭をひねっても、無駄と言い切れる。
こと凡人は。


「んなこたぁ、当たり前だのクラッカー」
ある程度この世界で生きれば、
上記のようなことは体得できるものかもしれません。
しかしながら、私は愚かなことに、
「なぜこの世は自らの頭で考えず、
 他人の考えにおんぶに抱っこの人間ばかりなのだろうか
 まるで牧場の羊のように。」
人生のルーティン化などまっぴらだ、
俺は自らの足であるくんだ、
などと、
自分は牧場の外に出た自由な羊であることを証明しようと
試みたことがあります。


しかしながら、
凡人が努力によって到達できるのは、
常に真理周辺までであって、
どうしても判然としないモヤは晴れることがないのです。
どこまでいっても手のひらのうえの孫悟空


まぁ、こうした思索の日々を生涯送れば、
なにがしかの真理に到達するかもしれませんが、
その真理はきっと私一人にのみ通用するものであるはずです。


「すべての価値観は他人との関係性に由来する」ことを前提とすれば、
それは必然であり、その前提はかなりの程度正しいと思われます。


そのような思索の限界についての結論とせまりくる現実、
つまるところ貧困が、私から余裕を奪い、
「処世術」を持たざるを得なくなりました。


その結果のひとつが、
「無駄なことは考えない」
無駄の基準は、
1.自分とあまりにも関係ないこと(妄想含む)
2.結論が出ないことをぐるぐる考える
3.どーてもいいこと
であり、結果、日々の食事や掃除といった雑事についても
いちいち「何食おう」「掃除するかどうか」と、
大雑把に言って「どーでもいい」ことを考えず、ルーティンにしてしまう必要がある。
さらに、ルーティンにできるものはルーティンにしていく。
ただし、ルーティンといっても安かろう悪かろうではなく、現在選びうるベターのなかから選び、継続するまでのこと。浮気をしないこと。
「選択」の段階を省略すること。


そうすることで、日々の生活を効率化できる。
このようにして生まれた時間で学習に邁進するのである。


また、ルーティンが儀式化し、
一定のリズムを打つようになれば、
生活の質も一定に保てるようになる。



以上のようなことをタラタラ考えることが、
まさに無駄だということです。