自分の気持ちに対処

先日、QVCの生放送の収録のときのこと。


いよいよ放送が始まり、私は舞台脇で出番待ちをしていた。


「始まった!」


と思い、なんだか緊張してきた。


適度な緊張はいいけど、過度な緊張はパフォーマンスを落とす。


いかん、と思い、
「なぜ俺は緊張するのか」
考えた。


考えたけど、緊張する理由が見当たらなかった。
ただ、この現場の雰囲気によって緊張していただけのようだ。
俺は途中から出て、マクラについて聞かれて、適当に返事をする。


これまで積み上げてきた練習の成果を発揮することを求められているわけでもなく、ただ、素人っぽく話せばいい。


今できることをやればいい。
それだけのことだ。


そう思うと、緊張はほとんど消えた。



自分の中で起こる感情というものを、
時に「どこからきたの?」と考える。


そうすると消えていく感情というものがある。
また、消えないこともある。



お酒を飲みすぎて、失態をさらした翌朝、
ひどく落ち込むことがある。


原因は昨晩の失態だとわかりきっているように思うけど、
あえて「なんでこんなに落ち込んでるんだ?」
と考えてみる。


俺は自分の失態に落ち込んでいる。
それは確かだ。


なぜ自分の失態に落ち込むことが、
俺はできるのか?


常に「今現在の俺」が「過去の俺」を責める構図。
これがおかしい。


自分にとっての「こうありたい将来の俺」という神のような存在があって、
その前で「今現在の俺」が「過去の俺」の罪を懺悔する。
「こいつ、昨晩こんなアホなことしましてん。恥ずかしい。」
過去の俺は、語ることができない。
いかんせん過去だから。
常にしゃべるのは現在の俺。


この3者の関係は、自分になんら成長をもたらさない。


なぜなら、「今現在の俺」は、「過去の俺」の罪を懺悔して、それでおしまいだからだ。


後悔、自己嫌悪は、「過去の俺」を否定する。
否定しておしまい。


「なんて俺はダメなんだ!」
それでおしまい。


さらには、
「俺は自分自身で自分のダメさ加減を認識してる分、本当にダメじゃない。」
そういう気持ちが絶対にある。


一見、反省しているようで、してない。
また同じことを繰り返す。
なぜならまた落ち込めばいいだけの話だからだ。


落ち込むってことは、つらいことのようだけど、
本当はたいしたことじゃないのかもしれないと最近思う。


なにか失態を犯したら、その事実を認めて、誰かに迷惑をかけたなら謝って、将来において同じことをしないように、あらためる。


それだけの話。


変わらなかったら、、、もうそれは自分はそういうやつだということで諦める。


そういう自分を生かす道を考えるしかない。
逆に武器になる。



以上はほぼ全て、以下の本の受けうりなんだけど。
確かにそうだと思ったんだ。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)