思うがままに考えてみるよ。
気がつけば人間は、鑑賞しているね。
ふと思ったんだけど、
鑑賞には2つの種類があると思うんだ。
まず感覚、直感に本能的に響くもの。
絵や音楽やダンスとかだね。
そして理屈や感情に迫るもの。
劇や小説や映画だね。
両者の区別は厳密にはわけ切れなくて、
混同しているものだけど、
無理やり分けるとこうなると思うんだ。
両者の違いは簡単に言って、
「言葉に置き換えられるか否か」
だと思うんだ。
映画の映像、歌の歌詞といったような混同もあるから、
この基準による2分法はまるで意味がないね。
でもまぁ、そういう区分を仮定して考えを続けてみよう。
ストリップ、映画、絵、民族工芸品、古墳、小説、
ハウツー本、劇、音楽、とにかく色々なジャンルを、
鑑賞してみて思ったよ。
(まぁ、絶対的な鑑賞経験の総量は多いとはいえないから、
これらの経験から導かれる結論の確かさは危ういかもしれない。)
鑑賞から得られる感覚は、2つある。
1.直感的、感覚的な感動。
とにかく、もう説明しがたい感動ってやつだね。
2.説明可能な感動。
これこれこうで、と説明できる感動。多くの場合、間接的に他人と共有できるね。
説明可能な感動は、説明しがたい感動に比べて程度が低いんじゃないかと一時期思っていたけど、最近はそう思わないんだ。
感動の種類が違うんだと思うんだ。
俗物的なものと芸術的なものの関係に当てはめて考えると、
俗物的なものは芸術的なものと比べて程度が低いと考えられがちだけどそうじゃないんじゃないかって思うんだ。
ストリップなんて俗だとされているけど、
僕は一種の宗教的ともいえる感動を覚えたよ。
表裏の関係。
端的にそういえるかもしれないね。
言葉の文脈で語れば、極めて俗。
でも、人間としての本性で感じるのは、聖だったりするんだ。
言葉はひとつの分水嶺だと思うんだ。
言葉と言葉でないものとの。
ということは、その前に、別れる前のものがあると考えられるね。
始原のなにかが。
なんだか思いつきで書いてたらなにがいいたいのかわからなくなってきたよ。
最初は、アニーマイラブをみて思った、
「仮想現実でいかに人間はうっぷんを晴らすか」
ということから、
鑑賞の必要性を考えたかったんだ。
毎度のことだけど、
こういうことは、どこかの誰かが同じことを考えてるだろうから、
こういうことを考えて書くことに意味はないと頭の隅で思うんだ。
確かに、僕の考えることは人類の叡智に寄与するレベルのものじゃないかもしれないんだ。
でも、重要なのは自分自身で考える、あるいは確信を持つということ、その確信を潔く捨てること、その繰り返しで、常に自分を一定の方向へ導くことなんだと思うんだ。
一体どこを目指すのか、わからないけど、
とにかく考えることが、大切なんだと思うんだ。
それが牧場の家畜が主に抗う数少ない手段だと思うから。
文脈からいうとこれは現実逃避なんだけど、
別の視点から見ると必要なことなんだ。
ストリップと同じ表裏を抱えているみたいだ。
だから僕はストリップにひかれているのかな。
さわやか文体にも限界が見えてきたよ。