知る

なにかについて人はなぜ知りたいと思うのか。
なにかについて知ることで、なにかの行動予測が立てられるからか。
なにかについてただひたすら、知りたい。
なんの目的にも結びつかず、ただ、知りたい。
そのような欲求がありえるのだろうか。

今生きている特定の人に知りたい欲求が及ぶと地獄となるのではないかと思った。

なぜなら、過去のものとはちがって、まだ誰も体験していない未来をも含んでくるからだ。
ある人について知りたい、そしていろいろ知る。
でも、毎日その人はなにかしら経験をつみ、変化する。
それをまた知りたい。
常に知りたい。
(あぁ恐ろしい。。。)
また知るということは、その対象を規定することにつながりやすい。
ファンやマニアは、対象をわかった気になって、
「いや、それは○○的にありえないから。」
とか、いやいや、あんたは○○じゃないから、わかんないだろ、
ってことを言うときがある。
人は自分以外のものになることは出来ないという自明の事実を超えたいという欲求は、
愛といえるのかもしれないとは思う。

戻ると、ある人について過去から現在までコンプリートして知りえたとしよう。
さらに完全なる未知である将来についても知りたいと思うようになるのは自然の理である。
だが無論無理だ。
そして将来については、先のファンやマニアのように過去、現在までの知識から対象を規定し、
行動予測を立て、将来のその人についてまで知った気になる。
「あの人はまじめだから、堅実に生きて、小金をためるだろう。」
「あの人は浮気ばかりだから、これからも浮気を続けるだろう。」
とかなんとか勝手なことを言う。
もし、その予測が裏切られたら、それを裏切りという。
勝手な規定から愛するものが外れることが許せない。
あまりにも許せない場合、その逸脱者を殺してしまうことで、自分の規定を、愛を守ることもあり得る

わけでございます。。
まことに勝手な話であります。

そもそも自分について知ろうと思っても同じ状態に陥る。
過去現在は知りうる。でも将来は知りえない。
さらには、過去現在についても、本当には知ることはできないと私は思います。
解釈がいろいろ成り立ちすぎて、結局、どの解釈を選ぶかはTPOによって変るのであって、
自分の人生を統一する理論はない。
というよりありすぎる。
かっこつけたいとき、笑ってもらいたいとき、ないてもらいたいとき、
その時々で、自分の過去、現在の出来事は変る。
がらりと人生はその色を変える。
振られ話が、深刻なときもあれば、笑い話になるときもあるように。

そのような玉虫色な経験はそもそも重要じゃない。
例えば、愛のような重要な経験は、
人生のいかなるとき引っ張り出してもかわらず、
同じ感情になり、多様な解釈を許さず、
唯一つの事実しか提示しない。
つまり、それが愛である。。。

いつでも変らぬ普遍性を見出すこと。
それが知りたいという欲求の根底にあるのではないか。
そしてそれをこの手につかみ、安心したい。
あなたの全てを知っている。
つまり、あなたは私のもの。。。


非常に恐ろしい話です。